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2013年11月18日

三国志8

曹崇が曹操の元に向かっているということを徐州を治めている陶謙が耳にしました。

曹操と何とかこの将来を考えるにあたり、近い存在になりたいと陶謙は考えていたので、曹崇をもてなすことを考えました。

すぐに陶謙は曹崇を城に迎える為に使いを出しました。
そして城に招き入れました。

陶謙は曹崇を精一杯もてなしました。

そして陶謙は旅の途中に間違いがあってはならないと、自分の部下であるチョウガイに対して五百名ばかりの兵をつけて旅路の護衛にあたらせました。

それは徐州を治める陶謙の命を縮めることになります。

理由は、この護衛にあたらせました五百名の兵は、元々黄巾族であった降伏兵であったのです。

曹崇と一緒にエン州に送られていたのは、金銀財宝でした。

元黄巾族の昔の血が騒ぎ出しました。

そしてチョウガイは昔の黄巾族で暴れていた頃のに戻ればいいじゃないかと五百名の兵をあおりました。

そして・・・ついに曹崇一味を殺害し、金銀財宝を奪い、逃走したのです。

曹崇の死、その悲報はすぐに曹操の耳に入りました。

曹操はこれから親孝行できると楽しみにしていた、その気持ちは簡単に壊されました。

曹操は悲しみ怒り狂い、部下がなだめるのを無視にすぐに陶謙に対し兵を繰り出しました。曹操は徐州に兵を繰り出しました。

その軍には報讐雪恨という文字を書いた旗を何本も立たせて、軍を進行させました。

旗を立てた理由は私的な理由で、兵を繰り出したことに対して、大義名分を示したかった
のかもしれません・・・。

陶謙は曹操の父親が自分の部下によって殺されたことを自分の責任として、無暗に戦うことより自分の首を曹操に差し出し、民衆を戦火に巻き込むことを阻止しようとしました。

しかし、陶謙の部下達は、無条件に降伏するよりも、曹操と戦うことを陶謙に勧めました。

ただし、徐州の兵だけでは兵力も少なく、また戦いなれていないことから、他諸将に応援してもらえうよう、げきを飛ばしました。

しかし、他の諸将は曹操が巨大な力を持っていることを知っており、誰一人として、応援に来てくれる将は現れませんでした。
posted by ライノ at 01:02| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月17日

三国志7

呂布は、養父である丁原、そして今回呂布の才能を引き出した董卓までを殺害したにもかかわらず、国を制圧することができませんでした。

力を持っていながらにしてのこの不幸さは後々に自らの死を持って知ることになります。

呂布が董卓を殺害したことで、再び世の中は乱れ始めました。

また黄巾族が出没し始め、暴れ始めました。

朝廷はすぐにこの黄巾族を制圧するように曹操に命じました。

曹操は黄巾族を制圧する為に、兵を動かし曹操の力を示すにふさわしい迅速な制圧をしました。

朝廷はこの曹操の迅速な対応、手柄に対して鎮東将軍の称号を与えました。

曹操はこの鎮東将軍の称号よりもっと大きな利益を得ました。

今後にもっとも役に立つものを手に入れました。

それは今までの戦いを通して、敗北した各軍の降伏してきた賊軍約三十万人、さらに民衆力を持っている見所のある若者を兵に追加しました。

そういった賊軍、若者を合わせて約百万人の軍隊となりました。

曹操はこうして戦いを続けるうちに軍隊の増強、名声を高めることとなっていきました。

曹操はこうして力が蓄えられてきたこのタイミングで、自分の父親である曹崇(そうすう)を自分の治める国に呼ぼうと思い、行動にうつしました。

曹崇は大層喜びました。

これまで曹操は自分の親族からあまり評判の良くない人物でした。

ただし曹崇は曹操は出世する息子であると信じていました。

それが今曹操からの迎えにより叶ったのです。

曹崇はすぐに家財道具をまとめて旅の支度を始めました。
そして準備が整い曹操が住むエン州に向かいました。
posted by ライノ at 02:09| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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