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2013年11月16日

三国志6

◆董卓軍の破滅◆
 
呂布を得た董卓は軍力も強化され、各州連合軍との戦いにも優勢を究めていました。

この頃長安では、王允という人物が現在の董卓が帝の存在を無視し、政治を掌握している状況についてどうすればいいか考えていました。

・・・そして、結論が出ました。

董卓と呂布の関係を悪化させるという策でした。

男性なら名誉、地位、女性が一般的に手につかみたい欲ですよね。

州の連合軍は”女性”という策をとりました。
非常に美しい女性、朝蝉(ちょうせん)が董卓のそばに置かれました。

その朝蝉を見て一目ぼれしたのが呂布でした。

呂布は次第に朝蝉に心引かれ、自分の手もとに置きたいと思うようになりました。

そして董卓を殺してしまいました。

同時に朝蝉は呂布に董卓を殺させるという目的を果たし、自害しました。

董卓が死んだことにより、董卓軍は分裂しました。

長安を制圧した呂布は董卓を殺した後、そのままの流れでビウ城に逃げた董卓の残兵を追いかけ、全て壊滅させようとしました。

しかし董卓の部下であったリカクやカクシが呂布と戦いました。

地上戦では勝ち目は無いと考え、山の中に陣を構えました。

その山の中に呂布軍を誘い込み、戦いを長期戦へと持ち込んでいきました。

長期戦に持ち込んでいる間にリカク、カクシの他の武将が違う道を使い、呂布軍にばれないように長安を攻め込みました。

そして長安を奪いました。

山の中で戦っていた呂布が一旦戦いを止め、長安に戻った時には既に、違う武将にのっとられており、董卓軍によって埋め尽くされました。

呂布は長安を奪われたことを悔しがりましたが、どうにもならなかったので袁術の元に食客として、向かいました。
posted by ライノ at 23:18| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月15日

三国志5

三国志5(カテゴリ三国志)

董卓に対する動きに各州の将も黙ってはいませんでした。

袁昭、孫堅(孫権の父親)などが立ち上がりました。

袁昭を総大将として董卓軍との戦いが始まりました。

劉備たち三人は、兵を繰り出した公孫讃と出会い、公孫讃の兵と共に、董卓軍と戦うこととなりました。

◆都の遷都 各州軍の戦い◆

連合軍と董卓軍との戦いは壮絶なものでした。

董卓軍の将である華雄(かゆう)は優れた将で、連合軍をじりじりと追い込んでいきました。

その勢いを止め、連合軍が優位になったのは、劉備の義兄弟、関羽雲長でした。

関羽は華雄と一騎打ちを行い、見事に華雄を破りました。

形成逆転となり、連合軍は董卓軍を追い詰めることとなりました。
これを虎牢関の戦いといいます。

董卓は劣勢になったことを感じ、現在の都である洛陽から、長安に遷都しました。

その際洛陽に火を付けました。洛陽に代々住んでいた農民も移動を強要され、

故郷が燃え崩れていくのを嘆き悲しみました。

この時孫堅は洛陽で皇帝のみが持つことを許される玉璽を見つけました。

董卓が長安に遷都したことにより、連合軍は各州に戻ることになりました。

その後各州の将達は領土拡大を狙い、戦いがしばしば行われた。

連合軍でも力を持っていた孫堅が、荊州の劉表と戦いましたが、劉表の策略により、
敗北することとなりました。

よって孫軍は散り散りになり、孫堅の息子兄弟も袁術の元に身を寄せました。
(孫策、孫権などです)。

連合軍の総大将を務めていた袁昭は、公孫讃を破り、河北地域を統一していました。
posted by ライノ at 23:28| 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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